

「弘前城」は通称「高岡城」と呼ばれており、現在弘前公園があった場所が当時「高岡」という地名であったことからと言われています
築城を考えたのは、津軽氏初代・津軽為信です。慶長8年(1603)に幕府の許可を得て、高岡を築地として選び慶長9年から築城工事にかかりました
為信は慶長12年に京都で亡くなりましたが、二代藩主となった信枚が工事を続行し、慶長16年(1611)に完成したと伝えられています
その後、明治4年(1871)の廃藩置県まに至るまでの260年間、津軽氏代々の居城となっていました
本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭から構成されています。全国の城の大半が明治維新時の取り壊しや、第二次世界大戦で燃えてしまっていますが、堀・石垣・土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、江戸時代に建てられたものが今も残っている大変貴重な城です
天守、櫓、城門、三重の水濠等の築城形態の全貌を遺す城跡として保存されているのは全国でもほとんど無い為に非常に珍しく、櫓として三層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟、城門(櫓門)として三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門の5棟が築城時の姿で現存し、全て国の重要文化財に指定されています
天守は3層3階で文化7年(1810)に九代藩主・津軽寧親によって再建されたものです。当初、弘前城の天守は二代藩主・信枚が築城時に立派な五層の天守を本丸の西南隅に築きました。しかし寛永4年(1627)9月10日夜、落雷による火事で天守閣は焼け落ちてしまいました。現在も本丸西南隅の石垣は、その天守の名残の様に西に張り出しています
江戸時代に作られ、今もそのまま残っている天守閣は全国でわずか十二城しかなく、弘前城の天守閣はその一つです
明治28年(1895)に市民に開放されて以来、現在は弘前公園(鷹揚公園)として市民の憩いの場として親しまれています
また観光名所として、全国でも屈指の桜の名所であり日本さくら名所100選に選ばれており、毎年春には弘前さくらまつりが開催されとても賑わっています